仏教の基本である、因果の道理について今回は書きたいと思います。
・因果の道理
【釈尊の言葉】
人が何をしようとも、その報いが自分に起こるのを見る。善いことを行った人は良い報いを見、悪いことを行った人は悪い報いを見る。
(ウダーナヴァルガ)
播いた種に応じて果実を収穫する。善い行いをした人は、良い報いを得、悪い行いをした人は、悪い報いを得る。
(サンユッタ・ニカーヤⅡ)
上記に紹介した初期経典の言葉は、運命に関する釈迦の基本認識を語っています。つまり因に応じて、結果を獲得する。因がよいものならば善い結果(幸せ、楽しみ)、因が悪いものならば悪い結果(不幸、苦しみ)がやってくるということですね。
ここでいう因というのは、行為のこと。仏教では業(カルマ)といます。結果とは果報、いわゆる運命のことです。
これを因果の道理といい、次のように要約されます。
善因楽果、 悪因苦果、 自因自果
(善い行いをした人は、心が楽になっていきますよ。悪い行いをした人は、心が苦しくなりますよ。心が楽になるのも苦しむのも、他人が悪いわけではなく、すべて自分に原因があるのですよ)
※「善因善果、悪因悪果」と言っているところもあり、善果、悪果とは幸福な運命、不幸な運命と話しているところもあります。ですが「何を幸福と感じるのか」は自分の心が決めるものなので、上記の言い方だと、幸・不幸を固定的に見ている見解になると思います。より仏教的には、「善因楽果、悪因苦果」という(唯識的な)解釈で因果応報の道理をとらえる立場がよいと思っております。
世の中で姓名がつけられていますが、それらは仮につけられた符牒に過ぎない。「行為」により人は、その行為にふさわしい人になるのだ───、そう釈迦はいっています。
(姓名は、かりにつけられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生まれによってバラモンなのである』と。
生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって<バラモンならざる者>となるのでもない。行為によって<バラモン>なのである。行為によって<バラモンならざる者>なのである。
行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人(やといにん)となるのである。
行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王となる。
賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。
世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。───進み行く車が轄(くさび)に結ばれているように。
(スッタニパータ)
これは、「私とは何ものか」ということに対する、釈迦の答えということが言えるでしょう。行為によって盗賊ともなり、武士ともなり、バラモンともなり、王ともなるのである・・・。いかに釈尊が行為(業)を重視しておられるかが分かります。別のところでは生まれ(どんな家に生まれたか)を問うなかれともあります。逆に、行為(業)を軽視している者は、仏教の教えから大きく外れたものであることが分かります。
・事例
①善因楽果、自因自果
勉強をがんばる。
ブロガーが読者のために、高品質な内容を書こうと資料を揃えて、引用部分などを整理しながら、ブログを書く。
仕事に精を出し、食事や休憩、睡眠時間以外は、そのことに集中して取り組む。
そういう善い行いをしていると、学生ならば学校の成績があがる。テストで上位の番数をとることができる。両親や先生、友達や塾の講師などから褒められ、認めてもらえる。
あるいは、ブロガーならば、読者が増えたりアクセス数が増え、アドセンス収益があがる。ASPからの紹介料も増加する。またブログの知名度が上がり、紙媒体や様々なメディアとのコラボができるようになる。ブログを書籍化しませんか、、、というような声がかかることもあるかもしれない。
クリエイターを仕事にしているものならば、作品制作に励んでいると、いい作品が作れる。また、作品が売れて収益が上がる。委託サイトのトップバナーなどに掲載してもらえるようになる。
あるいはYouTubeやXなどのSNSをやっている人ならば、高評価ボタンが押されたり、チャンネル登録者が増える。いいねをしてもらえたり、リポストをしてもらえるようになる。フォロワー数が増え、アカウントの価値が高まる。そういう結果(運命)が展開していくということですね。
②悪因苦果、自因自果
逆に、怠けて、勉強に精を出さずに、やりたいことばかりやってダラダラと日々を過ごしている。すると勉強の成績は伸びず、いつも「宿題しなさい」「また補習なの。少しは勉強しなさい」などと親から言われたりする。自分でも成績が上がれば、社会に出てからも勉強面で自信を持って堂々としていられる・・・。そういうことが分かっていても、目の前の欲にさからえず、マンガを読んだり、小説の世界に逃避したり、悪友と慣れ親しんだりして、勉強には目が向かない。一方、真面目に勉強している人は、成績も上がり、自己肯定感も高く、自信を持って日々を過ごしている。そういう結果になるのは、自分の蒔いた種で、人が勉強をがんばっても自分のテストの成績は1点もあがりません。自分が種を蒔くしかない。自因自果です。
・最近は、ヤフーのコメント欄に誹謗中傷を書いて、匿名なのをいいことに、人の人格を否定するようなことを書きこむ輩がいます。面と向かってはとても言えないようなことを、匿名ならばいい、有名人だから、文句を言われるのは“有名税”だなどと勘違いして、悪口をあることないこと書く。結果、あっさりとバレて、書いた本人が警察や弁護士のやっかいになっている。
釈迦の時代にもあったようで、次のように直裁的に諭されています。
人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を切り割くのである。
(スッタニパータ)
いつの時代も道理を知らず、苦しい結果を受けて涙を流している人ばかりだと知らされます。
・スマホのカメラが発達しすぎたからか、飲食店で添えつけの天かすを食べたり、牛丼チェーン店でテーブルに添えつけてある紅ショウガをむさぼり食べ、それを動画にとって悪ふざけをしている輩もいます。一瞬の悪目立ちしたい刹那的快楽に、理性が逆らえない。結果、動画に映っている者も、撮った人も、厳しい処罰を受けている。そういうニュースを目にしました。
・恋愛感情を利用して、中年男性からお金をだまし取り、必勝マニュアル的なものまで作成、女性に販売し、詐欺の幇助罪で逮捕された人もいます。一時の感情やスリル、性欲、楽してお金を稼いでやろうという欲に理性が逆らえない。そして、欲のまま行動した結果、それがブーメランのようにはね返って、自分自信、苦しい結果をうけている。
男性も女性も関係なく、やった行いに応じて報いを受けている。これがカルマの道理です。
世間のニュースや新聞で報道される内容は自己の心を映す鏡であり、因果の道理を展開する、仏の生きた説法なのだ。そのように教えられます。
・体験談
自分の話をしたいと思います。
自分は高校時代、勉強に精を出していました。地元の国立大学しか行かせてもらえない感じの家だったので、高校3年間は部活もせず、ひたすら勉強に励んだ3年間でした。そのときに感じたのは、授業のときに、ノートを借りて勉強したというように繕う同級生。あるいはセンター試験(いまの共通テスト)で、受験直前期だけ勉強したり、塾に行ったりして、つじつまを合わせるように勉強している連中・・・。そういう人たちを見るにつけ、自分は中間や期末でも高得点をとってきた。模試でも安定した成績をおさめ、がんばってきた。その苦労をしたのに、直前期に塾に行ったりした連中と同じ学校に行っている。そういう人たちも受験に合格し、同じ大学は行っていったのですね。途中までは散々な成績を取っていながら・・・。中にはコネで入ったんじゃないかと疑うような成績でも合格している人もいました。そういうとき、不公平感を感じ、ぼくの3年間は何だったんだろう。そういう感覚に掴まれたこともありました。
ところが大学に入って、仏教に出会い、因果の道理を聞いて驚きました。そして嬉しい思いになりました。ああ、やったらやっただけの結果は必ず来るんだ。道理はこうなっている。自分の努力は無駄ではなかった。そういう感慨を覚えたことが、よく思い出されます。
とくに大事なのは人がみているとか見ていないとか、そんなことは道理とはぜんぜん関係ない・・・。そういう教えだということです。
業というのは力を持っている。それは業力不滅といわれ、縁(※2回目のエントリで解説。ここでは直接原因を助ける間接原因と思っておけばよい)と結びつくまでは絶対に消えない力を持っている。大象100匹よりも強い・・・。そのようにも例えられます。
やった行いは不滅の力を持っていて、その人の心の蔵(※阿頼耶識。3回目のエントリで解説)におさまり、縁と結びついて結果をもたらすまでは、消えずに存在するのだと教えられています。
つまり、人が見ているとか見ていないとか、どうでもいいということ。先ほどの僕の体験談で言うと、つじつま合わせるように受験の直前期だけ勉強した、そして合格していった連中というのは、やはり学力的には劣るし、結局就職するためだけに大学に行っている人たちなんですよね。中には同じように勉強にがんばっている人もいたので、そういう人たちはやっぱり、大学院とかに進学して学芸員になっていったりしている。その後の運命には差異があるのですね。
また学習するのは図書館と言うこともありましたが、とくに塾に行でもなく、家での勉強になっていたので、当然同級生は側にいません。誰も見ていない、いわゆる他人はそこにいないワケです。人が見ている場所でだけ勉強して、見ていないところではしていない・・・。そういう「人相手」にやっている場合は、どれだけ取り繕っていても、やっぱり本質的な学力という点で、差が出てくるのです。
僕で言うと、一浪して入ってきている人もいましたが、やっぱり在学中に勉強をみっちりやってきただけあって、他の人たちはレベルが低く感じました。やっぱりがんばったらがんばっただけの結果は自分についてくる。学習塾の講師をしていたとき、同じ職場で働いている先生からは「あなたはもっと上に行けただろうなあ。でも他にいけなかったから○○大学に入ったんだろうな」という話を聞いて、嬉しくなりました。確かに同じ大学を卒業している人で先生をやっている人は、レベルは低く教えられる知識の幅も狭かった。種まきの違い、蒔いた種の違いはそういうところでも如実に出ていたのです。付け焼き刃の勉強しかしてこなかった人々は、表向き何にも言いませんが、周囲の学力の高さに驚き、青い顔をして勉強せざるを得ない。中にはせっかく入った学校を中退してしまう人もいる。運命はハッキリと分かれるのです。
「ああ、がんばったらがんばった分だけ、結果はくる。人がみているとかいないとか、そういうことは関係ないんだ。同級生との間で感じた溝を、(この道理を)知ることによって、認められた・・・」。そういう思いがしました。
人の見ていないところでも必死に勉強したことが実って、成績が上がる。そして先生や友達、親などからも褒められる。善因には必ず楽果がやってくるのであり、それは勉強しなかった人のところへは一つも行かず、蒔いた本人の元に戻る。
逆に勉強をサボっていた連中は、本質的な学力はつかず、大学でも苦労していました。サボったら、サボっていたなりの結果しか得られない。蒔いた種に応じて結果はやってくるのであり、自分の努力はすべて認められた・・・。そんな気がしました。
これが僕が仏教を学習し始めた、大きな動機の一つです。