引き続き、因果の道理について述べていきます。
・因縁果の道理
今回は、「縁」ついて中心に学習したいと思います。
大事な概念ですね。
「縁」は間接原因のことで、因が結果になるのを助ける働きをします。
わかりやすく言うと、米の直接原因がモミダネです。モミダネ無くして米は絶対にできない。しかしモミダネだけで米ができるかというとそうではない。タネを氷の上に蒔いていても、米はできません。土や肥料、適切な温度、日光や水などいろいろなものが必要です。その様々な、因が結果になるのを助ける間接原因(土、肥料、温度、日光、水など)を縁と言います。
だから因果の道理とは正確には、「因縁果の道理」なのですね。この縁というのが大事です。
因と縁どちらが重いということ無く、結果をもたらすパーセンテージは同じだと言われます。
たとえばあるブロガーが、以前は人気があったけど、時代と共に忘れ去られていったとする。あるいはその逆で、ずっと雌伏の時を過ごしていたのが、あるキッカケでパッと花咲いて、人気を博していったとしましょう・・・・。
そうした場合、その差は何によって違うのかと言えば、縁によって違うのですね。環境です。努力していたその量は同じですが、潜伏していたときと花開いた後で違うのは、時代や人の趣向の変化など外的要因によるものが多いのですね。
・自己を守れ
これは因果の道理そのものにも言えると思います。
よく自因自果だから、すべてその人の蒔いた種だから、ということで、自分にひどい結果がやってきたときに、すぐに因果の道理を捨ててしまう人がいます。善因楽果、自因自果は自分に都合がいいので認められても、悪因苦果、自因自果は認められない。それでは論旨に一貫性がありません。都合が悪くなるとすぐに法を捨てて、自分の“我”を守ろうとしていく・・・。仏縁のない衆生は悲しいものです。
苦しい結果がきたのは、その人の種まきによるところなのでしょうが、そのことと自分を責めて、自尊心を粉々に崩してしまうこととは、当然ながら話が違います。
【釈尊の言葉】
自己ほど可愛いいものは存在しない。穀物に等しい財は存在しない。智慧に等しい光輝は存在しない。
(サンユッタニカーヤⅠー強調点、引用者)
先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
(ダンマパダ)
自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
(ダンマパダ)
たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
(ダンマパダ)
聡明でない愚人どもは、自分に対して仇敵(かたき)に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実をむすぶ。
(ウダーナヴァルガ)
このように「自己を守れ、先ず自分を救済し、次いで人を救え」など、多方面から自己を大切にせよと教えられています。その帰結として、当然ながらいまでいう自尊心や自己肯定感を大事にせよ、とブッダは語られたと思います。
そのような釈尊が、自因自果、自業自得が真理だから、悪果を受けたときは、自分を激しく責めてもいいんだ、自分の言葉で、自己自身を傷つけてもいいのだ・・・とは言われないでしょう。
ここで大切なのが「縁」です。確かにそのような運命に至ったのは、その人自身の原因による。窓の外を見やると、道路を歩いている人には何の原因もない。だから、どれだけ近くにいようとも、同じような悪い運命は一つも展開していない。原因のないところに結果はないからだ。
しかし、環境的な要因で、ひどい悪果が展開していることも道理である。
ならば、あなたが自分自身を守るためには、まずその縁(場所・空間など)から身を退くのがよい。悪い空間から自己を遠ざけ、瞬時も無駄にすることなく、自己自身を守りなさい───と。
ときには「環境が悪いのだ。縁を変えることによって、運命を変えていこう」としてもいいのです。
悪い結果がくることは、誰でもあります。しかしそこには、「自因自果なのだから、お前自身の種まきだ。そんな行いをした、お前自身が悪いのだ・・・」と自罰的、自責的になる必要性はありません。そんなことを勧められた釈迦ならば、「自己ほど可愛いものはない」「自己を守れ」などと言うでしょうか。矛盾ですよね。
自尊心を守るためには、縁を変えてもいいのです。なぜなら、因だけでは結果は生じず、因縁和合して結果を生じるのが、因縁果の道理だからです。
だれでも悪果(不幸、災難)に見舞われることがあります。そういうときに、まず守らないといけないのは、自己であり、自分の“心”です。自己肯定感をないがしろにしないこと。自己否定することなく、それでも“自因自果”とうけとめていくときには、時には縁のせいにしてもいいのです。
こんなひどい結果を受けているのは、縁(間接原因)がわるいからだ。縁を変えよう・・・、と。
・事例研究
・事例①:いじめ
例えば、どう考えても理不尽な、学校でのいじめで苦しんでいる人がいるとしましょう。
そういうときは逃げていいのですね。
無理矢理、多人数で、意味不明な攻撃性を向けてくる、集団でこっちを責めてくるような連中(悪い縁)が悪いのです。そう思って逃げてください。
あるいは学校を変わるのも選択肢の一つでしょう。学校に通わずに高卒認定試験、大検を受ける手段もあります。決して大切な自分を責めることをしないでください。それで自尊心がボロボロになって、こんな責められる自分が悪いんだ、いじめられるような弱い僕がいけないんだ・・・と思ってしまっては元も子もありません。繰り返しますが、釈迦は自分自身を大事にしなさい、自己ほど可愛いものはない、瞬時も気を抜かず自己を守れ。そのように教えられています。自己に対して仇のように振る舞ってはなりません、自己こそ、自己の主ですよ・・・。そのように教え諭されます。
苦しいとき、自分を責めそうなときは、時には縁のせいにしていいのです。そしてそれを変えることで、運命を変えていくことができるのですね。
・事例②:地震
今年も元旦に能登半島地震がありましたが、あのような災害にあうことは、予期できない不幸です。悪果(不幸、災難)。
それを悪因苦果、自因自果だからなんらかの私の悪業が、このような報いを受けさせたのだ・・・。全部自分が悪い、ぼくのせいなんだ・・・。そのようにみじめな気持ち、自己否定の気持ちに掴まってしまう人もいると思います。
もちろん原因がないことがその人に起きるわけがないのですが、それで自己を責めてもいいということにはなりません。そんなことをしていたら、地震にまであって、情けない自己を責めて・・・と泣きっ面に蜂で、どんどん心が暗くなるだけです。
情けない自分と書きましたが、結局、どんな悪業によってそんな運命を引き当てることになったのか、わかりません。そんな分からないもののために、大事な自分まで責めて自尊心を粉々にしていることまでするのは、ドMというか、自己を責めすぎているように思います。
しかもどの悪業がそんな地震に遭うという運命を引き当てたのか、凡夫には分からないと言われるので、結局どうしようもないわけです。そうすると残されたその人には、「自分のせいでこんな悲惨な結果になって、家も倒壊、家具はメチャクチャ、飲み水もなくトイレをすることもできない。どうして・・・」と自責の念ばかりが強くなることになります。
因果の道理はさまざまな因縁によって、因縁生起(略して“縁起”)、結果が生じるので、人の悪口を言ったから、人を責めたから地震に遭ったなど、具体的なことはぜんぜん分からないのです。具体的な因が分からない以上、悪因をつつしんで、悪果を二度と引き起こさないようにしようという努力はできないことになります。結局、何にも分からないのです。仏様でもない限り。
そうだしたら自因自果といって、「自分のせいで・・・」と責めているのは、結局自分の自尊心を破壊することになり、「自分こそ自己の主である、自己を守りなさい」と教える釈尊の教えに反することになります。それでは教えも守れず、自尊心もくちゃくちゃ、何をやっているか分かりません。
だから自分のせいにして苦しむのではなく、「縁がわるかった、どうしようもない“無常”というものによって、どうしようもない結果がやってきたのだ・・・」と心の向きを転換することが大事だと思います。
そして震災において避難所の環境が悪いならば、二次避難、つまり一定期間、能登から離れて近隣の市町村に避難するなどの方法をとるなどしてもいいわけです。実際、そのように推進されています。
避難は長期間続くものだし、仮設住宅ができる期間も結構長くなるし、そこで孤立していると「生きていても意味はあるんだろうか・・・」と虚無感に支配されてしまうこともあると思います。そういうときは、別の場所に住む家族や親族のもとに避難するだけで、心が安らぎます。いわゆる環境を変えてみる、“縁”を変えるわけですね。
因だけで結果が生じるわけではない。確かに何の原因もなければ、自分にそのような悪い運命はくるはずがないので、原因はあったのでしょう。しかしそれはどれだけたっても、どの原因で生じたのかと「直接原因」を特定することはできません(地震などの天災の場合)。
そして、自分せいでこんな目に・・・と自己を責めているほど、どんどんみじめな気持ちになっていって、自信が失われていきます。今後、南海トラフ地震が高確率で起きる、被害は大きいものになると言われていますが、日本に住んでいるだけで、このような天災にあうことが少なくありません。それを直接原因は何なのか・・・と逡巡していても、原因は分かりません。諸行無常の世の中ですから、どんな縁がやって来るかも分からない。だからこそ、自分を責める心を捨てて、自己を大切にしてほしいと思います。
天災ですから自分の努力で結果を変えることはできないし、災害列島と言われるだけあって、地震だけなく、台風や線状降水帯ができ大雨が降ったり、河川の氾濫で床上浸水するとか、大雪が降って家屋が被害を受けたと言うこともあるでしょうね。どんなに善い種まきをしていたって、この日本に住んでいる限り、なんらかの災害にあることはあります。そういうときに「自因自果だから・・・」と言って、悪業を犯した自分を責めていても何にもならないと思います。
そんなときは、この環境が悪いんだ、悪縁がおかしいんだと思ってもいいと思います。そして二次避難をしたり、災害対策を行ったり、できることをやっていくのです。その方がよっぽど明るい生活ができます。
・「縁」についての理解を深め、因果の道理に則した生活を
このように、自業自得・自因自果だということと、自己を責めるということとは違うのですね。どれだけ過去の業をさがしてみても、理不尽ないじめや天災にあう(直接)原因などわかるものではない。ならば「すべて自因自果。自業自得に例外はない・・・。おれが悪いんだ、悪いことをやった自分のせいだ・・・」と自己否定をしてしまっては、自責の念に駆られていては、大切な自己をないがしろにしてしまうことになります。
まずは、もう自分のことを責めるのはやめましょう。
自己を責めるのは悪です。
「自己ほど可愛いものはない」、「自己こそ自分の主である」。これが仏教です。自因自果、自業自得だと知らされることと、自己を責めていいということは本質的に別の範疇の問題なのです。そのことを知ってほしいと思います。
すべての結果は直接原因だけで起こっているのではありません。縁(間接原因)にも原因はある。そういうことを知っていると、無用に自己を責めることが減り、因縁果の道理に従った生活を心から送ることができると思います。