・阿頼耶識縁起
阿頼耶識について述べていきたいと思います。
阿頼耶識は、大乗仏教の一つである、瑜伽行唯識学派において提唱された概念。瑜伽行唯識学派では、我々の心を八つに分け、八識といいます。
八識とは、
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識
の八つです。
最初の眼識、耳識、鼻識、舌識、身識はそれぞれ感覚器官にあたります。まとめて五根ともいいます。
眼識・・・視覚器官あるいは視覚能力
耳識・・・聴覚器官あるいは聴覚能力
鼻識・・・嗅覚器官あるいは嗅覚能力
舌識・・・味覚器官あるいは味覚能力
身識・・・触覚能力もしくは触覚器官
です。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚ですね。
意識は、私たちが普段認識しているものとそれほど相違はなく、知覚能力もしくは知覚器官をいいます。ここまでが意識できる領域です。
続いてそのさきの「末那識、阿頼耶識」は我々が普段、日常生活で意識できない領域、いわゆる深層心理、無意識の領域で働いている心です。
末那識・・・第八番目の心である阿頼耶識を対象として、それを常に“自分だ”と執着し続ける心を言います。我執の根本原因になる心で、自我を実在と見做す錯覚を生じさせる心と言われます。
さて問題となる阿頼耶識ですが、アーラヤ識とも言われます。阿頼耶とは、住所・場所を意味する言葉で、私たちが行った一切の業種子がおさまっているから一切種子識、あるいは業種子をおさめる“蔵”のような心という意味で、蔵識とも言われます。
業種子と述べたように、私たちがやる行いを植物の種子に喩えています。
行いと言っても、身口意の三業といわれるように、身体の行い(身業)、口の行い(口業)、心の行い(意業)の三つがあります。
業には運命を引き起こす大きな力があり、それは不滅だと説かれます(業力不滅)。その不滅の業力が、蔵の心である阿頼耶識におさまり、前回解説した、運命を引き起こす間接原因である“縁”とむすびついて(縁起)、われわれに運命をもたらす・・・。これが頼耶縁起(らやえんぎ)といわれる唯識法相の説になります。
20世紀の大発見として、フロイトによる潜在意識(無意識)の発見があげられますが、瑜伽行唯識学派では3~4世紀から末那識、阿頼耶識という、知覚されない無意識の領域を説いていた・・・。そのような点で現在仏教に注目される方もいるようですね。
・中観派(空、縁起)
唯識と比較される中観派は、龍樹(ナーガールジュナ)を祖師とし、その著である『中論』を根本聖典とした学派で、インドにおける大乗仏教の二大学派を形成しています。中観派における教理は、「縁起、空の論理」です。
一切は「因縁生起(縁起)」であり、因果の道理に従って、因(直接原因)と縁(間接原因)が和合している間だけ、存在している。キリスト教などのように万物の創造主というものを想定せず、事物は因と縁が結びついて勝手に生起したものであり、因縁の結びつきが解ければ、自然と壊れていく。成住壊空(じょうじゅうえくうーものが形を成し、しばらく形をとどめ、その後崩壊し、空に戻るということ)がこの世の真実の存在定理である。創造主のような意図的な、6日間で世界を作ったあと疲れたので1日休んだみたいな、いかにも人が創作したなというような、寓話的世界観をとりません。極めて科学的ですね。
ところが因縁生起、空の論理を徹底していくと、一切は空しいというニヒリズムに陥る可能性があります。その点を批判するかたちで、唯一、“識(心)”のみは存在するという「瑜伽行唯識学派」が勃興してきます。頼耶縁起、物事の実体は諸法無我=空であり実体を持たないが、変転してあらわれているすべては、心が生み出したもの、心の影像にすぎないと説きます。
・西洋哲学との類似
これは西洋哲学を参照しても首肯されるところで、カントの物自体などの議論ともかみ合ってきます。
つまり主観を超えた先にある物事の真の姿(物自体)は、絶対に認識できない。しかし、認識の共通フレームをもつ人間同士の間でなら、相互理解が可能である・・・。カントの理論は、近代の認識論の伝統、ルネ・デカルトの大陸合理論とデイビッド・ヒュームに代表されるイギリス経験論を折衷したものであると言われます。
物自体の世界(人間には知覚できない)を、感性と悟性のフィルターを通して見る。その感性と悟性のフィルターが人間に共通なので、人間同士の相互理解・共通認識・共通理解が可能なのである。「対象が認識に従う」というテーゼで表され、認識するフレームが同じなので、対象が同一対象として見れるのであり、認識の方が対象に従うのではない・・・。「認識のコペルニクス的転回」とカント自身が言っていますが、この点が後の哲学に大きな影響を与えていったことは、よくご存じの方もいられると思います。
一切は空、因縁生起したものであり、実体(本体)はありません。しかし阿頼耶識は存在し、そこにおさまっている共通する業(共業)を持った範囲、そのフレームの範疇で、物体は存在する(ように見える)・・・。意味的に、仏教と大変似通ったことを話していると言うことになります。
・心の種まき
業種子が阿頼耶識におさまるという話をしましたが、とくに意業(心で思うこと、思う行為)の比重が大きい。それは、心は、口や身体を動かす根本動因だから。
第一回で話をした因果の道理、善因楽果、悪因苦果、自因自果の因は行為(業)と話しましたが、とくに心の種まきが大事です。
どんなに身体や口でいいことやったり言ったりしていても、心の中で「あの人いなくなればいいのに」「死ねばいいのに」「何か失敗してくれないかな」「不幸にならないかな」などと心で悪を思い続けていては、心は不安や不満に覆われ、苦しまなければなりません。心の種まきを変えることで運命が変わり、自然と同じ業の人(共業)が周囲に集まってくるようになります。
人を馬鹿にするという行動をしていた人には、馬鹿にされるという結果が返ってきて、自然と人を馬鹿にする他人が周囲に集まってきます。自分を変えただけなのだからそれだけで終わるかと思うと、そうではない。善業の人は善業の人を、悪業の人は悪業の人を引き寄せるのですね。業が共通しているからです。
現実に展開している運命を反省し、「人を馬鹿にして責めるのはやめよう」とすると、他人を馬鹿にして責める人が、自然と離れていきます。そして他人を責めないようなタイプの人に囲まれることになります。排除するわけでもないのに、周囲から悪業の人がいなくなり、善業の人との絆が深まっていく。最初は不思議に感じるかもしれませんが、業力の強い力に引き寄せられるように、共業の人が集まってくるのです。
・邪見
よく勉強させていただいている、唯識的に因果の道理をとらえている本がありましたので、その中から因果の道理を否定する「邪見」という心ついて紹介したいと思います。
都合が悪い。だから目を逸らす。この態度を、仏教では「邪見」と言います。
現実を受け入れようとせず、邪(よこしま)に見る。邪とは、自分の都合の良いように現実をねじ曲げてみようとすること。
そして、ここで言う現実とは、因果の道理に従って生み出された現実のこと。「邪見」とは、まさに因果の道理を否定する態度です。これこそが様々な悪業を生み出す原因である、と仏教では教えられています。
邪見の人は、どんなに因果の道理を知り、「馬鹿にされるのは、他人を馬鹿にしているからですよ」と教えてもらっても、反発します。
「自分は他人を馬鹿にするような酷いことはしていない」という発想にしがみつきます。実際に馬鹿にされるような出来事があると、因果の道理を認めることができません。そして、どうするのかと言えば、怒りを起こすのです。怒りを起こして相手を否定してしまう───。
そうやって怒りを起こすことの結果は、どのようなものか。因果の道理は次のような結果を導きます。
馬鹿にしているから、その結果、馬鹿にされる、という結果。それに加えて、もうひとつ。誤魔化すために怒りを起こして相手を否定しているから、その結果、怒りをぶつけられる。つまり、因果の道理を否定するままが、苦しみの量を加算させてしまうことになります。
逆に、他人から責められたとき、馬鹿にされたとき、怒られたとき、素直に因果の道理を認めるとどうなるか。
他人を責めているから責められる。馬鹿にしているから、馬鹿にされる。心の中で怒っているから、怒られるのですね。
そのことを知らされれば、自然と、因果の道理をまっすぐに見て、馬鹿にするのをやめる。責めるのをやめる。心の中で怒っているのをやめる。そういう行動につながっていきます。
因果の道理を知らされると、行動が変わっていくのですね。いままで人を馬鹿にしていたのが、馬鹿にしなくなる。責めなくなる。怒らなくなる。すると、業が変わりますので、「人を責めて馬鹿にして怒っていた自分」から、「人を責めず、怒らずバカにもしない自分」へと業が変わっていきます。
そうなれば、同じタイプの人を自然と引き寄せますので、善人のものは自然と善人を引き寄せ、悪人の者は、自然と似たような悪人を引き寄せる。そのように阿頼耶識(業識)が変わっていきます。
・まとめ
因果の道理を中心に3回に分けて解説してきました。
因果の道理は、善因楽果、悪因苦果、自因自果という道理。それは「因縁果の道理」ともいわれ、自因自果といっても、なだれのように悪果がやってきたときに、自尊心がボロボロになるからといって道理を捨ててしまうのは、滑稽で愚かですよ。
縁(間接原因)があるから、ときには悪縁のせいで苦しんでいると思ってもいいのです。そうして、自己の自我(自己肯定感・自尊心)を守り、縁を変えて結果を着実に変えていく。原因なしに自分にそういう結果が起きるはずがないのだから、因果の道理をあきらかに見て、自分の行動を変えていく・・・。
そして行為が運命を引き起こすのは、私たちの本体である阿頼耶識(蔵識、業識)に私たちの心で思ったことなどの業が種子のようにおさまり、それが縁に触れて結果(運命)をもたらすのだ。そういうことを解説してきました。
因果の道理が知らされれば、行動が変わる。心で何を思っているか、それに注目するようになります。心で何を思っているか、よく観察する。そこに運命の秘密を解くカギがある。
心で思うことが変わると、自然と口で言うこと、身体でやることも変化していき、運命が変わっていきます。自分が変わるだけではなく、自然と似た業(共業)の人が引き寄せられてきます。
善因楽果、悪因苦果、自因自果の因とは、心の種まきのことなのです。心で善を思い続けている人は、心から不安や不満が取り除かれ、どんな環境下においても、幸せな心で生きてゆける。反対に、心で悪を思い続けている人は、どんなに物質的にめぐまれていても、心は不安や不満に覆われ、苦しんで生きて行かねばならないということですね。
もちろん心で善を思い続けていれば、身体や口で何をしてもいいということはありませんが、心で悪をやめ、善い種を蒔いていかなければ、どんなに幸せになりたいと思ってがんばったとしても、苦しみから離れ、心が楽になることはないのです。
善業の人の周囲には、善業の人が集まり、悪業の人の周囲には、悪業の人が集まります。人に優しくていねいに親切に接する人のまわりには、親切な優しい人が集まってきて幸せな世界を作っていきます。人の悪口ばかりを言って、馬鹿にして責めている人の周囲には、悪口、中傷、責める、馬鹿にする人が引き寄せられ、不幸な、灰色の世界を形成してきます。
現実に展開している運命を反省し、「人を馬鹿にし、責めるのをやめよう」と行動を変える。すると「人を馬鹿にし責める」ひとが離れていきます。そして人を大切にし、暖かく接するタイプの人が集まってくる。排除しているわけでもないのに、周囲から悪業の人がいなくなり、善業の人が集まってくる。最初は不思議に感じるかもしれませんが、業力の強い力に引き寄せられるように、共業の人が集まってくるのです。
幸せになりたければ、心で幸せな思いを起こすことです。運命は、自分の心で起こす思いが中心となってつくりあげていきます。自分の運命も環境も、自分の業(行為)が生み出し、創り上げていくのですね。
「人は誰も、内側で考えているとおりの人間である」という古来の金言は、私たちの人格のみならず、人生全般にあてはまる言葉です。私たちは、文字どおり、自分が考えているとおりの人生を生きているのです。なかでも人格は、私たちがめぐらしているあらゆる思いの、完璧な総和です。
(ジェームズ・アレンー「原因」と「結果」の法則①)
私たちの誰もが内心では手にしたいと考えている、気高い神のような人格は、神からの贈り物でもければ、偶然の産物でもありません。それは、くり返しめぐらされつづけた、気高く、正しい思いの、自然な結果です。そして卑しい獣のような人格は、卑しく、誤った思いの、やはり自然な結果です。
(同)
私たちは、たとえもっとも弱い、落ちぶれた状態にあるときでも、つねに自分自身の主人です。ただし、そのときの私たちは、自分の所帯を誤って治めている、愚かな主人です。
私たちは、自分の人生に深く思いをめぐらし、それを創り上げている法則をみずからの手で発見したときから、自分自身の賢い主人となり、自分自身を知的に管理しながら、豊かな実りへとつづく思いを次々とめぐらすようになります。そのときから私たちは、自分自身の意識的な主人となります。
(同)
これが因果の道理です。