闊達行雲の書評・仏教研究ブログ

書評や仏教関連の話題を書いていきます。

読書習慣の復活

 

・最近本を読んでいなかった

読書は僕にとって、作者と対話するようなツールです。ここはよく分かるな、ここは全然分からない・・・。そのようにして知見を交わし合いながら、作者とともに、決められた本の題名の中で、複数のテーマに沿って認識を交わし合う・・・。そのようなツールといっていいでしょう。

最近、そのような読書体験をほとんどしていませんでした。昨年の後半ぐらいから、ほとんどの時間を作画に費やしていて、自分の絵というものを描くことに終始してしまっていて、本を読むということをやっていませんでした。

その結果どうなったかというと、絵を比較する段階にはいってしまって、自分の物語が描けなくなってしまったのです。オリジナルであるということがどんどん減衰していって、自分が自分であるということがどんどん弱っていく。僕の弱い点といえるかもしれませんが、相手の主張、相手の土俵に乗っかりすぎてしまって、「自分」というものが限りなく小さくなってしまう・・・。そのような体験をしていました。

 

 

・自分の中の「自己(無意識)」が言う・・・描きたいものを描けと

そういう自己を失って、人との比較の中で生きているとき、僕は唯一の絵の上手さというものに囚われまくって、その中で序列に苦しんでいました。いわゆる唯一の絵の上手さという金を獲得するためのゴールドラッシュに巻き込まれていた。その競争の中では、古い受験時代のことを思い出すまでもなく、上から下まで順番がつけられ、上手い人にはいいねや高評価ボタンが集められ、マネーも地位も集まる。下のものには当然のごとく、注目も、マネーも地位も付与されず、だれにも見向きもされない・・・。そのような状況下におかれていたのです。

その世界では、自分のオリジナリティみたいなものはどこにもなく、自分の尊厳みたいなものもどうでもよくなり、ただ絵の上手さ、マンガの構成の妙などを競い合う、ゼロサムゲームが繰り広げられていくのです。

そういうのをして目の色変えて、血眼になってすったもんだ、上がったり下がったり、伸びたり伸びなかったりして嫉妬心をいだきながら、上手い人はどこが上手いんだろう・・・とかやっているとき、ぼくは確実に不幸でした。

どうあがいても自分の実力以上のものを持っている人たちと、勝負しなくてもいい土台にわざわざ立って、そして若さもなく、若い頃のような情熱もそこに傾けることもできないと、気づいている。そんな自分が、「絵の上手さ」という俎上に自分を乗せて、半ば、そこに自分を限定して、その中で戦わなければならないという馬鹿らしさ。

自尊心も自己肯定感もあったものではありません。

唯一絶対の価値(絵の上手さ)というもの、僕の描いていたのは成人向けマンガですが、描くスタイルみたいなもの、描き方みたいなものが決まってくるほど、どんどん作家の個性は死んでいき、画一化された描画空間の中で、工場で生産される製品のように、似たような商品だけが陸続と“生産”されていく・・・。

唯一絶対の価値(絵の上手さ)を見つめているとき、そこに必ず序列・順位が発生し、それを得られないとき、そこに到達できないとき、自分の価値はない・・・。そのように錯覚してしまうのです。

これ以上の苦しい、むなしい描画空間ってあるでしょうか。

 

そういうとき、自分の本心(無意識)が言うのです。描きたいものを、描きなさい、と。

 

・自分の道を往きなさい

同人で活動している意味はなんだったのか。みんなが求めているものを描いて金を稼ぎたいなら、職業作家になればいい。でもそうではない。自分は、自分の作品を描きたいのだ。

自分の作画を追求しなさい。そんなどこかに絶対的な絵の上手さがあって、絶対的な作画方法があって、そこに到達できるかできないかを競うゲームをしているんじゃない。自分の描きたいものを描く、書きたいストーリーが、自分の中にあるじゃないか。それを表現するために、創作をしているのではなかったのか?と。

そうしていると気づくのです。ああ、描き手の数だけ、作品があっていいのだ。絶対的な絵の上手さを競って、そこに至れない・・・、なんて自分は下手なんだろうと感じていた自分はバカだった。作者のかずだけ、作画があればいい。売れなかったら、お金はどこかから調達してくればいいのだ。何を迷っていたのだろう。自分らしい、自分にしか描けないものを追求してこうと思って、そのために描いていこう。。。

それが僕の創作だったのです。

人と違っていていいのです。絵の上手さを競うゲームをするために、そのために創作を始めたのではない。自分の作品を作るために、そのために作画を始めたのです。

そのことを一番端的に感じさせてくれるのが、文章を書くことであり、活字に触れることです。いわゆる『読書』です。

 

・読書習慣は創作に欠かせない

批判すること、本当にそうなのか疑ってみることです。

「もし真の実在を理解し、天地人生の真面目を知ろうと思ったならば、疑いうるだけ疑って、凡てのの人工的仮定を去り、疑うにももう疑いようのない直接の知識を本にして出立せねばならぬ」(西田幾多郎ー善の研究)

真の実在とは西田特有の述語ですが、人生の真面目を知ろうと思ったら、疑い、批判、ただ受け売りの知識を首肯するのではなく、読書体験の中で、著者の一文一文にたいし、自分はこう思う、こう考えるという思考の運動がないといけません。

そういうことをするとき、はじめて、“自己”が立ち上がるのです。唯一絶対の描き方を追究し、人と比較することの中に、自分の意識を漂わせているうちは、苦悩の奴隷です。

そうではなく、自分の描き方、自分の作品を完成させていくことです。みんなそういう風にして描いている。その中に売れていくもの、評価の高いもの、当然出てくるでしょう。でもそれは唯一絶対の描き方を標榜しているというならば、それはそれほど見所はない。

オリジナルで描いた、すべての人工的な仮定を取り去った中に、掴み取ってきたものが輝いてそれが評価されているならいいですが、ただ売れている、いいね・高評価が多いというものを崇めているうちは、刹那の瞬間に輝いてものを崇めているだけの切ない実存であることを免れ得ないでしょう。

本当に信じられるもの、本当に真実といえるものを掴み取るためには、そういう絶対的なものから離れて、批判し、疑い、人工的な仮定を取り去った中にもまだ残る、そういう残余のなかにこそ、真実の独自性、本当に信じられるものがあると思います。

そういうものを目指して、僕は創作を開始したのですね。

 

読書はそういうことを思い出させてくれる最良のツールです。そのことを忘れていた・・・。いままで以上に、活字に触れる、読書に励む・・・。そのような季節を送っていきたい。そのように思いました。