闊達行雲の書評・仏教研究ブログ

書評や仏教関連の話題を書いていきます。

苦悩・失敗が、そのまま悪果(不幸)とは限らない

 

・創作をやっていて気づくこと

 

よく創作を行っていて気づくことがあります。仏教を勉強していてよく教わってきたことですが、苦しみ・悩みがそのまま仏教で言う悪因苦果、自因自果の苦果とは限らない、ということです。苦果とは不幸、心を苦しめるものということですが、苦しみ悩みが元になって、それが母体になって作品を生み出せる・・・。そのようなことがよくあるからです。

とくに創作をしていて思うことですが、順境にめぐまれて楽しいことばかりだと、逆に描く(書く)ことってなくなるんですよね。僕なんかは若い頃苦労しましたが、その甲斐があって、いまブログにしろマンガにしろ、ネタに困るということはないです。

書くことはあふれるほどでてくる。次から次と出てくる。あまりお金にはなっていませんが・・・wなのでその欲求をすくい上げて、一つ一つカタチにしていくことに一生懸命になっていれば、それで創作になっていく・・・。なのでアイデアに困ったことは、この15年くらいの活動の中で、一回もない・・・。そう言ってもいいのではないかと思います。

よくAIなんかを使用して、絵はすべからくAIの高品質な絵柄を載せて、そこにゲームのレビュー記事を載せているサイトなんかがあったりしますが、結局、一年もしないうちに、ネタが尽きて、話の内容がもたなくなってくる。アフィリエイトやGoogleアドセンスで稼いではいるようだけど、そういう“効率的”なやり方というのは、なんの苦悩もないのか、というと、それはそれでけっこう“非効率的な”要素もあったりするのです。

そのことに全然、気づいていない。

自分は学生時代、そして社会人になってから生きていく中でやってきた苦しみ悩みというのが圧倒的に大きく、とくにそれは自己内部の問題、実存的な心の悩みという形をとっていましたが、それを解消するのにずいぶんと苦労しました。

しかしその苦労が、そのまま「創作」になっていくのです。そこがクリエイションのおもしろいところ、やっている人の役得といったところですね。

悩んで生きたことの足跡がすべて、作品をいいものに仕上げる、そういうのを「昇華」なんて精神分析ではいいますが、その糧になるのですね。

なので「若いときの苦労は買ってでもせよ」と言われますが、そういう点において一理あるなと思います。

ただあまりに苦しすぎると、生きることに疲れ果ててしまって、自殺とか、創作をやることを辞めてしまったりとかすることもあるので、ひどすぎるのはどうかなとも思います。

だから「苦労を買ってでもせよ」というのは言い過ぎだと思うのですが、それでも苦しみ悩みがそのまま創作をする母体になったりするというのはあると思います。

 

・若いときのレガシーでメシを食っているアーティスト

 

音楽でも若いときの曲の方が、いいものが多い。というか若いときに取った杵柄で年取ってからも食っている連中ばっかりですね。年取ってからの一曲の方が味が出ていい曲が書けそうなものなのに、90年代以降、ロックでヒットした曲って、何かあったでしょうか。

結局、時代の潮流に乗るような形でしか、曲を書けなかった連中・・・。そういうことなんでしょうね。本当に実力があれば、時代が変わろうが環境が変わろうが、いいものを書けるはずですから。

それでライブで2日で○万人動員~とかいっても、結局ファンは昔の曲を聴きたい、40代~のおっさん、おばさんばっかりで、若い人はTVは見ないし音楽も聴いてないんです。

若いときのビッグヒット数曲が、年をとってからも固定客を呼び込む呼び水になっている。まあ、いまは音楽業界じたいが衰退していて、ジャニーズ事務所の性加害問題もあり、日本のエンタメって風前の灯火という感じですよね。

某大御所漫才師なんかもプライベートの醜聞でフェードアウトしていきそうになってますし、いまはTVがどんどん人が捌けていって、ネットの方に人が流れていく・・・。その過渡期にあたるのかも知れませんね。

若さゆえの情熱や過剰な情動みたいなものが創作に向いて、結果としていいものができる。しかし、満たされていって結婚、育児、金銭的にも安定、自身の老いの問題などにぶつかって、結果として若いときのような燃えるような気持ちはどこへやら・・・。すっかり衰えて、関心は別の所に行き、創作にそこまでパッションが湧かない・・・。そういう人が多いのかもしれません。

若いときの苦しみ悩み、人生や実存への苦悩を創作にぶつけることによって、制作がかがやいてくる。苦悩は創作の母、みたいに言われるのもそういうことなんでしょうね。

ドラマでも善人ばかりだったら、刑事物などは話が展開しない。

悪役がいるからこそドラマが成り立っている。

もちろん何の事件もおきないのがベストに決まっているのですが、架空の物語においては、そういう悪役や悪者の存在が物語を引き立てている。

問題があり、それを解決していくところのに物語のおもしろさがある。そういう逆説的な要素が創作にはありますね。

 

・創作が人生ではないが、苦悩や失敗が、“人生という物語”の重要なキーになり得る

 

もちろんクリエイターでない人にとって、創作と関わり合いのない人にとって、物語と関係のない人には、悪役や加害者というのはない方がいい。その通りだと僕も思います。

クリーンな社会の方が好きだし、善人の方が好きです。悪人や濁った、悪人がはびこっている社会というのはお金やものはあっても、不幸な社会だと思います。

しかし、こと創作においては、そういう苦悩や自分のやらかした大きな失敗なんかも、創作を駆動する大きな因子になるのですね。「失敗は成功の母」という言葉もあるとおりで、失敗すればするほど、成功に近づいていると言えます。

そして人生においても、苦悩や自分の失敗が糧になって、自分の精神を鍛え、成功につながる、あるいはいいパフォーマンスの仕事につながる原動力になったりする。

創作が人生ではありませんが、人生という物語においては、苦しみ・悩み、失敗、地獄を見るような日々の中に、後の人生を輝かせる、大きなタネが眠っていたりするのです。

もちろん自ずから創作のために、進んで地獄に飛び込んでいくのはバカです。よく創作者の中で、作品に人生を食われている人っていますよね。仕事(創作)のために、家庭を破壊するようなことを平気でやって、「それがどうした、俺は生活を切り売りしてものを作っているんじゃない。悪いのはそういう才能を認めない社会の方だ!」ととんでもない責任転嫁をしているバカがいます。

そんな人の運命というのは悲惨で、当然この世から地獄に堕ちている、あるいは人が地獄に堕ちていくのを楽しんでいるような、悪魔の言いなりになるしか道がなくなっていく・・・。そういう人生なんですね。

まあそういうのは論外としても、苦悩や失敗は大きな人生を輝かせる縁になることがあり得ます。

 

・仏縁がある、ということの至上の喜び

 

仏法を知らされた私たちは、自因自果、自業自得がこの世の真理と知らされているものです。それはこの世で行った善業の習慣(善が習慣化したもの=徳)だけが、後生、あの世に持って行けるものだと知らされているからです。

ただ苦悩や不幸にまみれた人生の中にあっては、お金も財産も地位もすべてこの世に置いていきますから、死によって別れていくもの(=無常のもの)ばかりのわけです。

この世で苦悩を求めている、したり顔の連中を見ても、何のためにがんばっているのか。金(仕事)のため、地位のため、権力のため。無常によって粉々に壊れていくものにばかり執着しているではありませんか。

そして家庭を破壊するような不倫をしたり、薬物、アルコールなどを嗜癖する・・・、破滅的な人生を送るだけという結果になるのですね。

しかもそうやって苦労して掴んだものには、何の“意味”もない。無常によって崩されていくからです。

そんな幸福しか知らない人は、ニヒリズムに陥り、救いがないのが救いなのだ・・・とひとりごちたくなるのです。

「後生の問題(一大事)」が抜けた仏教・人生ほど、無味乾燥なものはありませんね。テーラーワーダ仏教の長老が、輪廻を知らされるほど、人は倫理的(道徳的)な生き方をするようになるのだ・・・。そう語っていました。

そういう、迷いの世を経巡っている私たちだからこそ、生まれがたい人間の生を生きること、いわゆる“人生”には大きな意義・意味がある・・・。

人生の目的がハッキリしてこそ、この世、なぜ善業を行う必要があるのか、苦しみ悩みや失敗にも大きな意味を見いだせていくのですね。

仏教を知らされたものは、本当に幸せだと思わずにおれませんね。