闊達行雲の書評・仏教研究ブログ

書評や仏教関連の話題を書いていきます。

悪縁を遠ざける

 

・縁の大切さ(ウダーナヴァルガ、末灯鈔、歎異抄から)

 

仏教では因縁果の道理(善因楽果、悪因苦果、自因自果)によってすべての果報(運命)が決まると教えられていますから、縁をよく知り、善い縁を選んで近づけ、悪い縁は嫌って遠ざけるようすすめられます。

それが幸福に生きる、この世の秘密なのです。

どれだけ因(業、いわゆる自分の行い)を善くしていても、縁が悪ければ、幸福にはなれません、ということですね。まれに悪縁があることに発奮して、克己奮励して努力して、幸福になっていく尊い人もいますが、そんな人はほとんどいません。

少なくともぼくは、自分の怠惰な姿勢を見るにつけ、悪縁を避け、善い縁を求めていくようにしなけらばならない・・・。そのように自戒しているところでございます。

お釈迦様は、ウダーナヴァルガに

明らかな智慧のある人が友達としてつき合ってはならないのは、信仰心なく、ものおしみして、二枚舌をつかい、他人の破滅を喜ぶ人々である。悪人たちと交わるのは悪いことである。

 

悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。

と繰り返し諭されている。

 

また、親鸞は末灯鈔に、

「『かように悪を好まんにはつつしんで遠ざかれ、近づくべからず』とこそ説かれて候へ。善知識・同行には親しみ近づけとこそ説きおかれて候へ。悪を好む人にも近づきなんどすることは、浄土にまいりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さようの罪人にもしたがい近づくことは候へ」

と言われ、悪を好むひとには謹んで遠ざかりなさい。善知識や法友(ともに仏法を求めていく仲間)には親しみ近づきなさいと言われています。また悪人に近づくのは、救われて弥陀の浄土に往生してから、還相のおはたらきで衆生利益のためにかえってきてからだ、とも言われています。

決して、「人のためだから・・・」と言って、自分の幸福をないがしろにしてはいけませんよ、というお諭しですね。もとは善導大師の観無量寿経疏の散善義のお言葉をもとに、親鸞が言われている言葉のようです。

また歎異抄第四章にも、

聖道の慈悲と浄土の慈悲を分けて、衆生をどんなにいとおしみ、かわいそうだと助けようと思っても、思うように完全に助けることは極めて難しい。念仏していそぎ仏になって、大慈悲心の心で、おもう存分衆生を助けることこそ、徹底した慈悲なのだ、と言われていますね。

 

・どこまでいっても、見栄だけの悲しい存在

 

TVのニュースを見ていると、どこまでいっても見栄とプライド、虚栄心でメシを喰っているな・・・・という思いにさせられる人がいます。人気で漫才グランプリで優勝したと思っていたら、オンラインカジノの賭博問題と不貞行為のダブルパンチで活動自粛した人。

明るくて番組や野球のMCなんかをしていたけれども、人には言えないような性暴力行為をしたあげく、被害者に消えない傷(PTSD)を負わせて、芸能活動を突如“終了”していった、元人気アイドル。

とくに不倫と賭博が多いような気がしますね。

みんな心が寂しいんでしょうか。

少し前は飲酒がやめられず、アルコール中毒になって肝機能がボロボロになり、更正プログラムをうけている人もいました。これも元アイドルですが、過剰飲酒によるアルコール誘導性のブラックアウトになって、警察のやっかいになった人もいましたね。

毎日毎日、口さえ開けば、自分の自慢話ばかりしている人・・・・。あ~あ、あの人ね~と言う人、いますよね・・・。口を開けば、自分の食生活の、武勇伝の、やったことの自慢、自慢、自慢・・・。それを金を使ってニュースにまでして、さらに優越感を貪っている。

金と虚栄心と優越感を突き詰めていくと、人間ここまで狂えるんだなということをまざまざと教えてくれますね。

自分たちの世代で多いのが、見た目や外見が一見クリーンなように見えて、私生活が死んでいるパターンです。

こういう人はたいてい、表の顔と裏の顔があって、それが分裂している・・・。精神分析的に言えば、超自我とエスの乖離がはげしく、自分の本当の欲求と親からの命令が極端に離れているケースが多いです。

親の心根と子どもの性質が大きく隔たっている・・・。ジェネレーションギャップが大きかったのかも知れません。そのため親のルールと子どものルールが大きく違う。違うのに、超自我は親(特に父親)のルールを元に形成されると言われますから、自分の中に分裂したものを抱え込まざるを得ない。

よく縁があるのが、両親の仲が悪く、子どもがそのつなぎ役をしているケースですね。一昔前ならAC(アダルトチルドレン)と呼ばれたような子どもです。もとはアルコール依存症の家庭に育った子どもを指して言っていたのですが、機能不全な家庭に育った子どもも指すようになりました。

両親が毎日皿を投げたり、怒鳴りつけたり、大げんかをしている。その中で育った子どもは、両親に対する愛情と同時に、そういう破壊的な家庭環境に対する怒り・憎しみを心にいだき、両親を嫌って、友人の家に避難するか、あるいはそのままにいる場合は、その両親のつなぎ役をしているようなケースが多いです。

そのため「子どものような親」に甘えられず、“愛情”というかりそめの、カタチだけの愛でなんとか家庭と自我をつなぎとめている悲しい存在です。

いわゆる甘えたいときに甘えられず、自分が子どもである“親”の“親代わり”をしているケース。

両親に対する愛情が一方で形成され、そのため超自我は現実に対する従順な態度という形で形成されますが、本当の欲求はそういう両親に対する憎しみ・怒りなどがとぐろを巻いている。超自我(内心にとりこまれた親の命令)とエス(抑圧された、快だけを求める自己の本心の欲望)が乖離的に、心内に同時形成されます。

一見、クリーンなイメージに引き寄せられて「良さそうな人だな」と近づいてみると、実は心の中は“終わっている”・・・。外面、そとづらだけは見栄で、お人好しでクリーンな感じなのですが、裏側は怒り・憎しみ、自己中な欲望がウズを巻いているような私生活をしている・・・。

ドロドロした内心のとぐろをまく煩悩と、それとは似ても似つかないクリーンで清らかなイメージとの乖離・・・。

そんな人はたとえ結婚したところで、大きな“枷”を背負わざるを得ず、そのしわ寄せは、必然的に配偶者や子どもにいきます。自分のカルマ(業=因果の道理)から逃れることはできないのですね。

社会では結婚すると、その家庭は家庭として一個の社会的存在として扱われ、他人がその中をのぞき見ることはできなくなります。社会的な圧や年齢などに押されて、早々に結婚したはいいけど、自分の中に処理できていない煩悩のカタマリみたいなものを抱えている人は、結局、墓場のような生活の中で若さも、自由も吸い取られていく。かさかさに乾いた生を、送らざるを得ない。まるで雑草に養分を吸い取られた枯れ木のように・・・。

そうなると喜び(優越感)を感じることができるのは、自然と“見栄”や“金”の話だけになります。

そういった朝から晩まで、煩悩だらけの生活。何のための人生なんでしょう。

 

「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらに何れの生に向かってかこの身を度せん」(三帰依文)

 

どこに人間に生まれたことの喜びを、謳歌している人がいるでしょうか。

 

・悪縁とは何か(虚栄心、金)

 

とくに自分と同世代の人の中には、そういう乖離的な心的構造をもった人が、何食わぬ顔をして、クリーンなイメージで大手を振って歩いている・・・。

父親の不倫、家庭内不和を経験している家に育った子どもは、自分の居場所を確保することに精一杯。そういう人は、「出世」、「金」に対する執着心が強いです。

金遣いも荒く、誇示的に金を消費して、金銭欲と虚栄心を満たし、優越感を同時に満たそうとする。毎日毎日、煩悩まみれの生活をする人間の誕生です。

そのくせ親に対する愛着も捨てきれず、道徳倫理を墨守しようとする欲求(超自我の欲望、良心)との間で、ジレンマを抱えます。

見るからに悪い格好をして、犯罪者やホームレスのような身なりをしているならわかりやすい。

しかし、実際の生活面においては、プライド・見栄、虚栄心でコーティングされた、乖離的な実存態様が、社会の闇を物語っているように感じます(ぼくと同性代の人の場合)。

プライド、見栄、虚栄心という煩悩の化粧が、もう厚い厚い。

いまのZ世代やα世代の人たちには、また違う欲求の構造が立ち現れてくるのでしょうが、それもニュースや報道で、芸能人の醜聞やスキャンダルというカタチで象徴的にこれから露呈してくるでしょう。

 

女性への性暴力で消えていった人気芸能人のように、表の顔と裏の顔、上辺のクリーンで親しみやすい笑顔(タテマエ)と、ドロドロの煩悩(ホンネ)・・・。その乖離は深刻な亀裂を為している。

揺るぎない、強い自己を持って・・・と言っていたって、底を叩けば、何の哲学も思想もない。

ただ激しく乖離した、煩悩にまみれた実存がいるだけ。

だから疲れてきたら、耐えきれないとき、闇に走るのですね。

 

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。(蓮如上人ー白骨の御文章)

何の思想もなく、ただあてどもなく水に漂う浮き草のように、ぷかぷか難度海の波の合間に浮かんで揺れている・・・。

根底に明確で強靱な思想を持たない限り、どれだけ強がって見栄を張ってみたところで、自信はカンタンに崩れ去っていきます。

 

こういうのを悪縁と言わずして、何と言うでしょうか。

 

ここで、ただ一つ避けなければならないことは、それらの人を助けようとするばかりに、ミイラ取りがミイラになってしまうことです。

 

先ず自分がしっかりすること。それが大事なのですね。

 

「夢の中 集めた宝 みな置いて 業を荷のうて 独り出て行く」

 

この世は夢です。過ぎ去った日々も、夢幻のように、「そんなこと本当にあったのかなあ?」と消えていくものだと釈尊は教えられています。その中、業(カルマ=行為)だけは背負っていくのですね。そして一人でこの世を去って行く。

だからこそ因縁果の道理を知って、悪縁をさけて、出世の本懐を遂げることができるように、幸せになれるようにしていかないといけない。

末法の灯火として遺して下された先達の言葉を胸に、日々を過ごしていきたいなと思いました。