闊達行雲の書評・仏教研究ブログ

書評や仏教関連の話題を書いていきます。

見栄だけで生きている人の末路はあわれ【虚栄心の奴隷にならないために】

 

 

 

・悪人が幸福になれるほど、この世は甘くない

 

本当は煩悩一杯の悪人なんだけど、人一倍“見栄”があって、「あの人って悪い人なんだよ~」と言われるのは、どうも忍びない・・・。そのために精一杯見栄を張って、虚栄心で、仕方なく善をしている人がいます。

善をやっているのは、常識のない人、いつまでたっても向上しない人と言われたくないから・・・。だから仕方なく善をやっているんですね。

いつも言うとおり、善因楽果、悪因苦果、自因自果が道理ですから、善をやらなければ幸福はやってきません。

煩悩にまかせて、欲を起こしたいときは思いっきり欲に流れる。怒りたいときは、相手を殴ってでも、自分の“我”を通したい。愚痴に身が染まっているときは、ルサンチマン(怨恨)のカタマリになって、人の幸福をネタみ、相手を幸福の座から引きずり下ろすために、相手を傷つけることも平気でやる・・・。

貪欲、怒り、愚痴の三毒の煩悩の毒龍が心中に巣くっている人は、どんどんこの世から不幸になって、やがて“地獄”にひきずりこまれていきます。

そんな実存が幸福になれる、真っ当に生きていけるほど、この世の中・・・というより世界は甘くありません。

かわいそうですが、助言をしても、そういう人はたいていプライドが高すぎて聞く耳を持ちません。

放っておくしかない。「腹が立ったら数を数えよ、触れずに放っておけ」、と言われるように、勝手に不幸になっていき、自滅していきます。できるだけ助言をしても、聞く耳をもたない人は、自因自果、自業自得、放っておいて、黙っておくしかないのです。

悪をやればやるほど自分の地位は失墜し、やがて権力の座からは転げ落ち、人の信頼も失い、どんどん孤独になっていく・・・。不幸だけが身の回りに出現するようになり、幸福とは縁遠い生活になってしまうのですね。

さて、そういうことが分かっているので、煩悩一杯の悪人でも、欲望のおもむくままに生きるのは、なかなかできない。

そこで考え出すのが、自我の欲望、いわゆる見栄です。

 

・見栄で善をやる(雑毒の善)

本当はふんぞりかえって座って、自分を「神」だと言ってたい・・・。しかしそのままだとただの誇大妄想の強いバカ(裸の王様)だと思われるので、社会事業や人助けを仕方なくやっている・・・。会社にいくとそういう人っていますよね。

どうしても人から“下”に見られたくない。常に上から目線で人から舐められるのを極端に恐れている。

そういう人って、そもそも強い欲望が二つあるんですね。そしてその二つがおおきな葛藤(ジレンマ)を生み出している。煩悩のまま欲望のまま生きていたいという欲求と、自分の体裁を気にする見栄(自我の欲望)とが。

欲のまま、怒りたいときには好きなだけ怒りたい。愚痴るときは、人の不幸を思いっきり願い、他人が傷ついたり、失敗したり、雨に降られているのをみて嘲り笑っていたい・・・。

そういう風に思っている。

でもそのままだと、どんどん不幸になっていくし、典型的な悪人だと思われてしまうので、その点は気になる。

そこで「見栄」で、善をやるわけです。

でも善といっても、嫌々やっているだけ。法律を守るのも、捕まりたくないから、逮捕されると自分のバカでかいプライドが傷つくので、仕方なく守っている。

こういう善を、仏教では「雑毒の善」といいます。

毒の混じった善ということですね。虚栄心のために嫌々善をやっている。そんな見栄がパンパンにつまった、仏の目から見れば見苦しい善ということです。

芸能界でも、最近は不倫や性暴力、オンラインカジノの賭博問題等の事件が、毎日のように報道されています。

普段は明るく、バラエティーなどでなんの不満もなく、明るく善人のようにふるまっていても、それは世を渡るための、仮の姿。裏では不倫、賭博、薬物、アルコール依存など、およそまっとうに生きている一般人が考えもつかないようなことをやっている。そんな事件が、毎日のようにネットニュースなどで報道されています。

害虫になるアリを殺す、アリの巣コロリを仕掛けておくと、次から次とアリがやってきます。前の虫が自分たちを絶滅させる毒物を運んでいるとも知らず、次から次と甘い香りに引き寄せられるようにやってくる。前の一匹がエサをつかんだと思えば、次の一匹もエサをつかむ。甘いエサに引き寄せられて、また一匹、また一匹とエサをつかみに来る。

そして巣ごと全滅させられるワケです。

表向き善をやっているだけで、本心からやっているわけではない。虚栄心、見栄でやっているだけの“役者”は必ず、化けの皮がはがされて、本当の姿が暴露されてしまうのですね。

 

・見栄だけで生きている、“かりそめの人生”を卒業しよう

どれだけ見栄でやっていようが、大衆はその心を見透かしています。隠し通せるものではありません。

格好つけるために演技でセリフを言うように善をやっていたって、その化けの皮は、み~んな見透かしています。わかっているのですね。裸の王様は、裸だとみんな知っているのです。バレているのです。

だからこそ、私たちは心から善をやっていこうではありませんか。

蒔いた種は必ず生える。因果の道理が、この世の道理なのですね。善因楽果、悪因苦果、自因自果の法則に従って、蒔いたものは必ず自分に還ってくる。善には楽果が、悪には苦しみが、必ずやってきます。

格好だけやっている、役者のように生きている人は、プライドだけがバカみたいに高い。

虚栄心・見栄のカタマリなのです。

そんな見栄の奴隷の人生のような哀れな生は、卒業しませんか。

そして心を大事にして、心から善をやっていく・・・。そうした結果は、必ず善果になって、自分自身にあらわれてきます。

虚栄心だらけの、見栄の奴隷は、あわれなものです。

因果の道理を知らされて、見栄だけの、外面だけのかりそめの生を卒業し、本当に幸福な前向きな生を生きる。

そんな幸福な人生を送らせていただきたいものですね。

善に向かって進むものは栄え、悪に向かって走るものは滅びていきます。

道理とともに生き、充実した人生にしていきたいものですね。