闊達行雲の書評・仏教研究ブログ

書評や仏教関連の話題を書いていきます。

「自己の主は、自分なのだ」ということの意味

・優等生に、ある種共通するもの

学生時代に勉強をがんばった人は、優等生として自分を理解する。そしてその体験によっていい思いをすればするほど、その認識は強固に強化されていきます。


学校の勉強ってどういうものでしたでしょうか。


数学に顕著だと思いますが、方程式の答えが問題によって決まっていて、それを探し当てる・・・。二次関数のグラフはどういうカタチで、各数値の範囲で、最大・最小値はこう変化する・・・。そのような推移を正確に理解し答えられる。

社会が好きでしたが、史実、記憶した年号を記憶したとおりに記入する。1192年なら鎌倉幕府が開かれた、1467年なら応仁の乱があった・・・。産業革命は18世紀。

自由な読みができると思われる国語でも、作者の心境として正しいものを、ア~エから一つ選びなさいなどとして、答えが決まっている。それを探し当てる、ある種ゲームをしながら点数を取っていく。そういう作業が課せられていたように思います。

英語なら単語、文法、構文があらかじめあり、中間テスト、期末試験でその覚えたものを書くことで点数になる。あるいはその知識を使って、長文読解をし、書かれた文章の要約を英語で書いたり、あるいは選択肢から選ぶ。
僕は文系だったので、理科は生物をとりましたが、遺伝子の発現形式を答えなさい、や、細胞膜・壁、ミトコンドリアなどの部位の名前を正確に答えられることなどが求められたように思います。
それぞれに共通しているのは、問題の制作者の用意した“答え”を見抜き、それを回答することで、点数になる。そしてテストで順番が出て、大学に合格したり不合格になったりする・・・。
思春期における多感な時期に、そういった問題把握のカタチをとらされていくわけですね。

・社会にでてから直面する問題には、外的な答えのないものも多い

ところが、そういう問題をスイスイ解いていたのに、社会に出てからは一筋縄ではいかない。
政治家などは有名国立・私立を出ている人も少なくないが、裏金問題で糾弾されたりしている。裏金が「悪いこと」なんて誰しも分かるはずだけど、自覚がないはずはないが、そういうものも吹き飛んでしまう。


結婚するのに息せき切って、ときめいてキスをして、結婚指輪をはめていた人が、苦しくて仕事がまったく手につかず、闇金に手を出したり、不貞行為に走ったりしている。
結婚なんかとくに人生観が左右されやすいところで、一晩限りの関係が忘れられず、せっかく築いてきた学歴を捨てて、大学を出ていない人と一緒になって、「話が通じない・・・」とボヤいている。結婚して子どもを持つって大変なことなのに、少しのときめきや「結婚しなければならない」という見栄のために、一夜の関係に引きずられて、苦悩の多い選択をしている。

 

学生の時に身につけた学問や経験を活かしていって、それがそのまま人生なら、こんなに高学歴の人が失敗している例が、ニュースで見られるはずがない。

 

そういうのに便乗してか、思想も学問ももたない輩が、自分たちの経験を売りにして一時、成功を手にしたのを掲げ、「勉強なんかやるやつはバカだ。思想も学問も不要。そういうものは人生の、むしろ足かせになると思った方がいい。自分と周囲の人たちが幸福であることがまず肝要!信じられるのはおのれの“感覚”のみだ」と叫んでいる。


これはすでに末期症状を呈した、小説の中の架空都市のお話ではない。私たちの身の回りに、ごく自然な顔をして展開されている光景なのかもしれません。


それは正解のない(あるいはよく見えない)事象空間の中で、外側に回答用紙をもった問題制作者などいない、「答えのない問い」に直面しているからではないでしょうか。

・前向きに生きるために

あらかじめ誰かが答えを用意してくれるわけではない。ヒントはくれるかもしれないけれど。
確かにAIによって、マグロの切り身がどれが新鮮か、そういうことが瞬時に判断でき90%に近い確率で、目利きと同じような回答がはじき出されたりしている。しかしいぜんとして「肝心の重要な問題」には正確な回答を出せない。


結婚相手との相性、政治の行く末、地震が起きるか起きないかなどの天変地異の確率など、いつ無常がやってきて後生に突入するか、だれにも分かりません。


「人生の目標」は何か、何の仕事をしていけばいいのか、子どもは何人いたほうがいいのか、今年はよい歳にしたいけど、盆暮れ正月、やってくる親戚にあうのがおっくうだ、そのときに何の話をしたらいいか・・・。

わからないこと、30年前もいまも、年齢を経るにつれ、色々経験して分かることも増えたけれど、依然として分からないこと、怖いことも増えた気がする。
そういった人生の中で、不確実性に覆われた時間の中、問題を用意し回答を持っている人がいるわけではない。

不確実な問題に対する「回答」はだれも用意してはくれない。

そういうときに頼る人相見や占い師、手相を見て気持ちを落ち着かせたりして判断していくワケですけど、不確実な答えのない問いは、自分の内側を見ても外側を見ても、たくさんあるように思います。
そんなとき、少なくない人が、第三の親密な他者の意見を参照したりしていくわけですが、最後に答えを出していくのは、やっぱり「自分」だと思います。自分こそ、自己の運命を切り開いていく主体であり、その意味で、自己という大きな船を導く航海士であり、コンパスをもった船長なんだろうと思います。


年を重ねるほど、学生時代のものの見方は、一つの枠組みにとらわれたあくまでも一つの「見解」であって、だれも答えを持ってない問題に向き合うことが、歳をとるにつれて増える。それは年齢を経て世界が、人生が“変わった”のではなく、もともと世界はそうなっていた。人生とは、そういうものだった。それが見えてきただけ。


ただ何も分からないと言うと、“不可知論”に陥るから、何も分からないではどこにも進めないから、わかりやすい“答え”を用意できる領域を豊富に用意して、その中で遊戯できるようにセッティングされていた・・・。学校環境とは、モラトリアムとは、教育上そういう役割を持った場所だったのだろうと思います。


そのときに、人の意見を参照しつつも、いかに、それを乗り越えていける感度を養い、感覚を養って、嗅覚をもち、前向きに生きていけるか。
生きる力って、そういうときに発揮されてくると思いますね。

・自己こそ、自分の主である

学問を修めたからといって、成功できるかどうか決まっていない。学歴のない人でもバズってネットで成功している。


結婚しても不満たらたら、夫と相性が合わない、仕事が手につかない、子どもがグズって寝てくれないと不満を漏らしているお母さんがいます。


金持ちほど塀が高い、見栄を張りまくって、毎日そのためだけに存在している。ルビーの指輪をはめるとドラクエ3では性格が見栄っ張りになりますが、その値千金のルビーに毎日こきつかわれている人。


科学や実験、研究室の中で、答えの用意された世界に没頭して、約束された答えの出る領域の中だけで、「計画」にがんじがらめになって、呼吸している人。学歴があっても、どれだけ用意された回答を答える能力に特化していたって、それだけで人生の解答になるほど、人間の生は単純ではありません。


そういった人生の中で、不確実で回答のない人生の中、そこに、ある確信を持った一つの答えを投げかけていく。自分なりの答えを出していく。それが“自分”なのだと思います。
自己こそ、自分の主であり、主人公です。

ネットを探して、たとえばWindows10のサポートはいつ終了するのか、あるいはPS5の横置きフットはどうつければいいかなど、簡単に答えの見つかる問いもあります。
が、そういう問いとは性質の違う問いがある。簡単に答えが出ない、時間が経たないと分からない、そういう問いもある。


そういうのにぶつかったときに、何を信じて、どういう思想で、行動していくか。その判断を一つ一つ積み重ねて、基礎を固め、応用もきくように、トレーニングを積んでいくことで、いざというとき、判断のつかない問いにぶつかった時、たくましく前進できると思います。


自分を導けるのは、自分なのだ────。そのことが日を追うごとに知らされてくる感じがいたします。自己の主は自分であるとは、そういう局面において、発揮されてくる言葉なのだろうと思います。