闊達行雲の書評・仏教研究ブログ

書評や仏教関連の話題を書いていきます。

自分の欲求を正確に把握する(自灯明・法灯明の教え)

昨年は9月以降、更新できませんでしたが、今年はこちらのブログも少しでも多く更新していきたいものです。

さて今回は、自灯明・法灯明の教えを味わってみたいと思います。

 

 

 

・一人歩む

 

釈尊の直のお言葉を伝えるものとして、現存するうちでも最古のパーリ語仏典、ダンマパダにおいて次のように諭されています。

旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、またはひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。

また同じダンマパダとならび最古の経典といわれるスッタニパータにも同様のお諭しがみられます。

われらは実に朋友を得る幸せを讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角ようにただ独り歩め。

スッタニパータには犀の角の章があるように、自分と同等かそれ以上の人に出会わなければ、犀の角のようにただ独りで人生を歩めというお諭しが随所に見られます。犀の角の章だけで41ものアフォリズムが繰り返されています。

 

その根拠として釈尊の認識を伺ってみるに、ウダーナヴァルガの一説が参考になると思います。

どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。

ブッダは友人関係を非常に大切にしています。そして自分と同等かそれより優れた友と出会わないならば、むしろきっぱりと一人で人生を歩め・・・。そのようなお諭しをされます。

朱に交われば赤くなる(中国のことわざ)、その人を知らんと欲すればその友を見よ(論語)など中国にも似たようなことわざがありますが、ブッダが言われると重みが違いますよね。

なんだかんだ言っても友人が大事だ、恋人と一緒にいるのが幸福だ、などという考え方とは真逆です。人は一緒に歩く、その人の色に染まるのだから、善人と付き合い、悪人を友とするな、善人の敵になっても、悪人を友とするなと説かれます。

それ故に、賢者は、自分は、果物籠が(中に入れる果物に)影響されるようなものであるということわりを見て、悪人と交わるな。善人と交われ。

(ウダーナヴァルガ)

称讃してくれる愚者と、非難してくれる賢者とでは、愚者の発する称讃よりも、賢者の発する非難のほうがすぐれている。

(ウダーナヴァルガ)

 

・自己の主張をハッキリさせることが大事。右に行くのか、左に行くのかをまずハッキリさせる

では、自分一人で歩いて行こうとしたときに、大事なことは何でしょうか。

まずは自分の主張(どうしたいか)をはっきりさせることだと思います。自分自身が何を考えているか分からずして、あるいは混乱の中にいるときに、自分の主張を見失ってしまうことがありますが、それは避けなければなりません。自分がどうしたいかをハッキリ知ること。それが肝要です。

とくに感受、知覚作用の鋭敏な人(存在の構成要素ー五蘊でいうところの受蘊・想蘊ー感受・知覚作用)は、感覚から到来する感受・知覚を受けたときに、感知する作用が大きすぎて自己の主体が奪取されてしまいます。自分が何をしたいのか、という自己の欲求が、一瞬、見失われてしまうのですね。

だから、まずそこから自分の主張、つまり「どうしたいか」という自己の欲求を取り出すことが大事になります。そのときに必要なのが、書くこと、そしてそれを語ることです。

 

・頭の中に情報を保持せず、外にアウトプットする(書く)ことで思考内容を客観的に見つめる

書く瞑想という本がありますが、思考内容を頭の中に保持していようとすると、思考と自我が分離不可になり、どこまでが自分の感情でどこまでが思考内容で、どこまでが自分で自律して考える自我なのか、判別がつきにくくなります。

そこで自分の思考を外に書き出して、客観的に俯瞰して思考内容を観る・・・。そういう作業が必要です。

 

おもに書いていくことで、自分の思考内容と、それに付着した“感情”が明らかになっていきます。

本に関しては別エントリでレビューを書きたいと思いますが、このほかにもいろんな本が出ており、やり方も種々紹介されています。

この本では、いま・この場所において、昨日を振り返ったときに、心のエネルギーが上がったこと(充電ログ)、逆にエネルギーが下がったこと(放電ログ)を書き記し、そのとき感じた“感情”を記録していきます。

こうすることで思考内容をアウトプットし、思考と感情を自我から分離し、客観的にそれらを見つめることができます。これは瞑想である・・・・。そういうワケです。

瞑想は色々と定義されますが、仏教ではサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の二つに分類する考え方があります。サマタ瞑想では高ぶった心を落ち着かせ、静めること。ヴィパッサナー瞑想は洞察(智慧)であり、物事をあるがままに観察することです。サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想は双方を両方習得することが勧められます。

書くことで、自分の頭の中にある思考内容と感情をジャーナリングし、ありのまま見つめることで、自己の問題点を冷静に洞察し、対象化するときに大変役立ちます。

 

・自分の心境を語る

第二に、「語る」ことも大事です。信頼できる他者に話をしてみる。あるいはそういう相手がいない場合や、自分自身の自己イメージが邪魔をして、なかなか心を開けない場合は、お題を決めてYouTubeで話をしてみると、意外な効果があることに気づきます。これは最近自分が試してみる中で気づかされました。

自己概念(自己イメージ)はおもに、心理学の用語で、自分自身が自己を対象化してみている、そのイメージをいいます。

唯識では四分といわれます。

相分とは客観的側面、見分は主観的側面をいいます。相分は外界にある客観的対象、見分は、相分を見る主観的側面をいいます。

その見分を客観的にみるはたらき、つまり見分が対象を把握している側面を客観的に見つめる側面を自証分といいます。

自証分が自己認識する主体にあたると思います。

いわゆる主観的側面である見分を客観的に把握する側面ということですね。その自証分をさらに上から把握する側面を証自証分といいいます。これが四分です。

コンビニでたとえるならば、コンビニに陳列されている商品が相分。それをチェックしている店員が見分。その店員の就業管理をしているのが店長ですが、その店長が自証分。そしてその店長を管理把握しているのが社長ですが、その社長が証自証分にあたります(横山紘一さんによる喩え)。

自己概念を確認し、自分を客観的に把握するのに自証分、証自証分が大事ですが、そのときに「書く」ことで思考内容(見分)を客観的に把握することと同時に、発話する、語ることで見分を客観的に把握することができると思います。

理解ある他者(友達、配偶者、家族etc)に心を開いて話をする。あるいはカウンセリングなどで先生(カウンセラー)に話をしてみる。またYouTubeでお題を決めて語ってみる。そうすることで見分(主観的側面)の理解が進み、自己概念を把握し、自分の姿を客観的に把握することができます。

 

・「書き、語る」ことは日常生活に必要不可欠の行為

僕は絵を描いている人なのですが、調子よく描いていると絵にとらわれてしまい、自己を見失ってしまうことがありました。自分が何をしたいか分からない、あるいは自分の行動修正をしたい・・・。そういう気持ちがあったのですね。そういうときはひたすら文章を書いていました。自分の根本の欲求を掘り起こし、「何がしたいか」という自分の欲求を正確に把握し、「行動を修正する」ときには、文章が一番です。

そうしたときに気づいたのです。ああ、自分は行動修正をしたかったんだな、何がしたいかしっかりと把握し、進むべき方向を確認したかったのだ・・・・。そう気づいたのですね。ブログを書いているとアクセス数やPVなどにとらわれていきますが、楽しく書くことを忘れていては、元も子もなく、創作自体がしぼんで、かすれていってしまうのですね。

 

・自灯明、法灯明

釈尊がお亡くなりになられるときに、弟子に向かって「これから何を灯りとして進んでいけばいいでしょうか」という問いに対して、「自己を灯りとし、法を灯りとせよ」と説かれたというものです。大般涅槃経や転輪王経などに根拠があります。

まずは自己を灯りとし、他を灯りとするなということです。これは、

自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば得難き主を得る。

(ダンマパダ)

 

みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

(ダンマパダ)

 

たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。

(ダンマパダ)

などの釈尊の言葉を参照すれば明らかでしょう。「善因楽果、悪因苦果、自因自果」が仏教ですから、自業自得、自己の運命を決めるのは、自分自身である。ゆえに自己のつとめに専念し、自分こそが自己の主となれ。そう諭されるわけですね。

そして法(仏法)をよりどころとせよ。そう言われます。自帰依、法帰依とも言われますね。肝に銘じていきたいと思います。

 

・まとめ

生きていく上で友人は大切である。しかし自分と同等かそれ以上の朋友に出会わなければ、きっぱりと一人で生きなさい。そのときに大事なことはつねに瞑想、つまり自己の心を客観視し、「なにがしたいのか」「どこに向かって生きたいのか」という自分の欲求を明確にしておくことです。そしてその発見した欲求(方向に向かって)、生きなさい。自己をよりどころとし、仏法をよりどころとして生きていきなさい。そう諭されているのだと領解しております。

25年もまっすぐに釈尊のお言葉を大事に進ませていただきたいと思います。